تسجيل الدخول「はい」 小さく頷くアコ。 「アコのために、俺は……君を直したい」 「はい!」 大きく頷くアコ。 そして俺は、はっきりと言った。 「アコのために、俺は、オーディオをやるよ」 「はいっ! ありがとうございます!」 アコがもう一度抱きついてきた。 ぬくもりが心地よい。肌の感触が妙に暖かい。 「お、八島。覚悟は決まったの?」 と、紐育が妙にほくほくした顔で声をかけてきた。 どうやらたっぷり堪能したらしい。 「ああ、紐育は?」 「んー、気になるのはあったけど、ちょーっと値段がね。高いよね」 「だよな。まさかイヤホンがこんなに高いものだとは思わなかったよ」 世の中わからないことばかりである。 と、アコが嬉しそうに挙手する。 「私、八万五千円ですから!」 自慢。俺ははは、と口元を引きつらせながら小さく突っ込む。 「でもそれこの店では多分ミドル級だよな? 五十万とか四十万とかあるし」 「でもそれらに私、負ける気はしません。これでも私、フラグシップですもん!」 「はは、それもそうだ。じゃ、今日は帰ろうか」 「え?」 意外そうに首をひねるアコ。 どうやら今日この場で全てを終わらせるつもりだったらしい。 とはいえ、アコを聴くのだから別にイヤホンを買う必要はないんだぞ? まあそんな野暮なことを言うと彼女も傷つくだろうから、ここは当たり障りのないように、 「音源、ダウンロードしないとな」 と言って、ぐっと親指を立てた。 アコはぎゅっと拳を握り、破顔一笑。 「はいっ! ハイレゾたっぷり買ってください! 一曲六百六十円です!」 「高っ! え!? 何!? 何でそんなに高いの!?」 超予想外! なんだそりゃ!? 「オーディオはお金がかかるんですよー でもポタオデは安い部類ですよ? 据え置きとか天井知らずですから」 「……ちなみに据え置きのハイエンドってどれくらい?」
「へ?」 マナーが悪いので人差し指をはたき落とした。疑問の声を漏らしながら。 「私を聴いてください。で、気に入ってください!」 「あ、そうか。わかった。えーと、指を耳に入れるの?」 まだ心の準備が出来ていないんですが。 「はい、行きますよ」 あ、問答無用なんですねそうなんですね。わかりましたよ畜生! 俺は観念し、アコの手を取って耳に押し当てていく。念のため人に見られないように隅っこで、体で隠しながら。 アコの指は少しだけひんやりとして、すべすべで、くすぐったくて、それでいて心地よかった。 心臓がとくんとくんと少しだけ強く自己主張する。周囲の喧噪が嘘のように静かに感じられ、耳も頬も熱くなる。 アコの吐息が、妙になまめかしい。 さ、音を鳴らすとしよう。スマホをタップする。 ああ――聴こえてきた。 「……これが、アコの音」 「はい、これが私の音です。どうですか?」 「…………」 さっきの十万円の音とは性質がまるで違う。 十万円のやつは音の奔流というかありとあらゆる楽器が凄い近いところから鳴り響いていた。低音がパワフルで、中音が近くて、高音が鋭くて、何よりも音が濃い。まるで生クリームのように濃密で、それでいて音が三次元に聴こえるというものだった。一言で言うなら音の暴力。 アコは全く正反対で、それでいて美しい音だった。 さっぱりとして、澄んでいて、解像度とやらはそんなでもないが、一音一音がとても心地良い。聞いてて体が溶けて消えそうになる。 視界がピンク一色に染まり、そのまま天国へ旅立ってしまいそう。 「八島くん?」 ちょいちょと腕を突かれ、はっとなる。 現実が、視界に映った。 俺はアコの指を耳から離すと、息を吸って、目を閉じて、 「素直に言う。アコ」 ゆっくりと目を見開いた。 「はい」 俺はそんなに頭がいい方じゃない。語彙も豊富じゃない。 で
「ま、まあいい。取り敢えず聴いてみよう。青くて綺麗だね」 手に取ってみる。さっきのは金属だったがこれはプラスチックのようだ。とはいえ、クリアブルーが実に美しい。ぶっちゃけこっちの方が好みである。 アコは俺の手にあるイヤホンをしげしげと見つめながら、聞かれてもいないのに解説を開始しはじめた。 「それはダイナミックドライバー一発ですね。それは結構古い機種ですけど最近は安易な多ドラを脱却し、ドライバー一発で優れたサウンドを出せるようになったんですよ」 「へえ……。んじゃ……んんっ!?」 装着し、音を鳴らし、そして―― 「いかがです?」 絶句してしまった。 なんだ、この音は!? さっきの三千円よりはもやっとしているのだが、音が実に柔らかく、ふんわりとして、それでいて低音がパワフルだ。 そして何より―― 「聴こえなかった音が聴こえる……」 この曲にはこんな楽器が使われていたのか! アコが何故か我がことのように誇らしげに胸を張る。 「そういうのを『解像度』というんです」 「音が綺麗だ……というか、なんていうか、高級っていうのかな。凄くいい」 俺はイヤホンには詳しくない。音楽だってそんなに聞いたわけじゃない。 でも、わかるのだ。この音の良さが。問答無用とはまさにこのこと。 「他のはどうです?」 「え? 他の? うおっ! これは随分キンキンするぞ!」 頭が痺れるような音! さっきとはまるで違う! かなり強烈なサウンドだ。 「高音が強いんですよ」 「なんかボーカルが、なんかキーンとくるね。でも凄く音がいい。篭もらないっていうのかな。透明感のある音だ」 これと比べるとさっきのはもやっとしていたのがわかる。モコモコというべきか。 非常にクリア。透明感のカタマリ。 ただ、不快なほど高音が強く、好みかと言われるとまた話は別だ。 次のはどうだろう。これもシュア掛けというやつか。視聴機を見てみるとぶっちゃけこのタイプの方が多い。これがかなり意外であった。百均にこのタイプのイヤホンなどないからだ。 「こ
あの後、アコには家で待機させ、放課後になってからアコの案内でイヤホン専門店とやらに向かうこととなった。紐育と一緒に三人で。 電車にしばし揺られ、駅を出ては人の喧噪をかきわけ、ビル街を通り過ぎ、裏通りにさしかかったところ。ビルの四階にある店舗がそれだ。 「ここです!」 店の前をびしっと指さすアコ。その顔はすげえ嬉しそうであった。 「アコ知ってるんだ」 「そもそも私、ここで売られてましたから」 「人身売買みたいな言い方しない」 俺はぺしっとアコのおでこを叩いた。結構客入りは多いのだ。誰が聞いているかわかったもんじゃない。 「あでっ。さ、色々聴いてみてください! スマホの準備はOK?」 「ノリノリだなあ。といっても曲そんなにないよ」 むしろなんでああるのかというレベルである。昔適当に数曲ダウンロードしたことがあったのだが、なんでダウンロードしたのかとんと思い出せない。 しかしアコはなんてことのないように鼻息を荒くしながらどんと自身の胸を叩いた。 「大丈夫! 色々聴くわけですから一曲あれば十分です。同じ曲を違うイヤホンで聴き比べてみてください!」 「なるほど」 俺は頷くとスマホを取り出し、ミュージックアプリを起動させた。 「じゃ、私は私で色々聴いてみようっと。じゃ、後でねー」 「あ、紐育! ったく……」 言うが早いか紐育はその姿を消してしまった。素早い。おそらくスマホに色々入っているのだろう。メタルが。 「趣味、ねえ」 俺にはないもので、欲しいとも思わなかったもので、でもアコがそれを押しつけてきて。 だというのに、不思議と嫌な気分が沸いてこなかった。 「俺なんかが、それにサキの……いや、言うまい」 首を振る。サキに勧められる趣味。それが俺のプライドを傷つけるというのに、何故だろうか、ちっとも嫌な気分がしない。 矛盾している感情。その正体が掴めない。 ただ、俺の視界には様々な――といっても男ばっかだが男たちがありのようにイヤホンに群がり、砂糖を拾うように耳に押し込んでいた。 今から俺は
「じゃあこうしようか」 と、紐育が口を挟んできた。その声は妙に弾んでいる。 「へ?」「紐育?」 ハモりはしなかったがアコと俺は同時に声を上げた。 紐育が俺とアコを相互に見やり、 「アコちゃんは八島に聴いて欲しいんだよね?」 「はい!」 アコは元気に返事をした。 「で、成仏するには満足して貰わないとダメと」 「はい!」 またもやアコは元気に返事をした。 俺は苦笑交じりのぽつりと。 「元気だなあ」 「でも八島は音楽に興味がないから嫌と」 「嫌っつーか……」 女の子に指突っ込まれるのが、その……いや、こんなこと言えないけどさ。 いや、それだけじゃないけどね。 そんなことをもじもじ考えていると紐育が突如としてびしっと俺を指さす。「じゃあ放課後、イヤホン屋に行くの」 「行くのって決定かい」 俺の突っ込みは空しく、紐育は力強く頷く。 「もち。だって八島はイヤホンの音なんて知らないっしょ? どれも同じだろって思ってるっしょ?」 「まあ、そりゃ」 俺が小さく頷くのをよそに、アコがいきなり一歩前に踏み込み、 大声でまくしたてる。 「そうなんですよ紐育さん! 酷いんですよ! イヤホンなんて百均にいくらでもあるって言うんですよ! 失礼しちゃいますよね! 私、八万五千円なのに!」 「高っ!」 紐育がぎょっと目を見開き、声を上げた。 「…………」 アコが何とも言えないような複雑な顔で紐育を見つめる。 それを見て、紐育が口元を抑え、ばつが悪そうに目を泳がせる。 「あ、ごめんなさい。偉そうなこと言ったけど私もイヤホンはよく知らなくて。ほほほ」 「ほほほじゃねえよ」 俺はぺしっと紐育の肩を叩く。 紐育はこほんと咳払いを一つして、改めて語り出す。 「でもだからこそ、イヤホン専門店で色々イヤホンを聴いてその違いを知りたいんだよ。そして八島はそこである程度イヤホンを聴いた後、改めてアコちゃんを聴くの」 「何?」
ひとしきり説明を聞いた紐育が、俺の肩に手を回しながら興味深そうに頷いた。 「へえ、そんなことが」 「そうなんですよぉ。およよよよ」 「泣くフリしない」 俺は紐育の腕をどかし、ぺしっとアコのおでこを叩く。軽くな。 さて、これらの話を聞いて紐育も呆れたことだろう。俺は紐育の方を向きながら―― 「でさあ、紐育からも……紐育!?」 「へーへーへー」 「なんか、目が輝いてるんですけど!?」 予想外の反応だった! 紐育の双眸はまるで夜景のようにキラキラとしていて、全く想定していない顔である。 すると紐育がアコの手を両手でがっしと掴みながら力強く言う。 「実はね、私音楽好きなんだよ!」 「へえ」 俺は思わず声を漏らした。 「でもほらうち神社じゃん? だから大音量でスピーカー鳴らそうとすると怒られるし、そもそもお母さんが聴覚過敏だからスピーカーダメって言うんだよ」 「はあ」 それは知らなかった。紐育ってそういやあまり家のこと話さないもんな。神社の娘ってことくらいしか知らんし、あまり紐育の家にはいかないし。神社に行ってもすることないもんな。 と、紐育が何故かしょぼんと肩を落とす。 「でもイヤホンじゃ音楽楽しめなくて」 「何聴くの?」 俺は何気なく訊ねた。 「メタル」 「……紐育さん、あんたって人は……」 なるほど、それじゃ自宅で聴けるわけない。 メタルが鳴り響く神社を想像した。参拝客からぶっ飛ばされそうだった。 「デスメタルもパワーメタルもプログレッシヴメタルもメロディックスピードメタルもシンフォニックメタルもゴシックメタルもスラッシュメタルも大好きなんだよ」 「さっぱりわからん」 しかしアコはわかったようで、今度は彼女が目を宝石のように輝かせる番だった。 「へえへえ! それは素晴らしいです! 紐育さん! 是非私で聴いてください!」 「でもアコちゃんイヤホンでしょ?」 紐育の言に、アコは目をつむりながら人差し指をメトロノームのように






